観光マップ
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- 桜井の水
- 旧山陽国道沿いの竹藪にある播磨十水のひとつです。 黒岡にゆききの人も心あらば 薬ともなれさくら井のみつ 赤松広秀「播磨鑑」
- 松田山古墳
- 通称松田山の山頂にある古墳。銅鏡・銅鏃・全国にも数少ない貴重な副葬品である筒形銅器・鉄剣・鉄鏃・鉄斧・勾玉と管玉の首飾りなどが副葬されていました。古墳時代前期のもので、佐用岡を中心とする小さな平野を治めていた首長の墓ではないかと伝えられています。
- 黒岡神社古墳
- 黒岡神社境内にある、周囲が約50mの片袖式横穴式石室古墳です。古墳時代後期の代表的なもので、石棺が現存する、珍しい古墳です。
- 楯岩城
- 「播磨鑑」によると、この楯岩城を築いたのは、赤松則弘で、その後加東郡に去り、1441年に赤松伊豆守貞村が城主になったとかかれています。5代続いて栄えました。 姫路藩士、小屋左次右衛門が城跡に登って描いた見取り図によると、現在のテレビ塔があるところが本丸で、南と西北に伸びる屋根上に、二の丸、三の丸を設けたかなり大規模な山城であったと記されています。 巨岩が文字通り楯のように立ち並んでいるところから、楯岩城の名がつけられています。
- 宮本武蔵生誕地
- 宝暦12年(1762)に書かれた地誌【播磨鑑】に当時、宮本武蔵が太子町宮本村で生まれたと記されています。また、晩年の武蔵を知る唯一の史料、自筆「五輪書」に武蔵が自ら「生国播磨の武士・・・」と記載をされています。 残念なことに、宝暦年間の大火災にて村の大半が罹災し、武蔵に関する資料・古文書・系図等の大部分が消失。さらに、明治20年におきた再度の大火災により、総ての史料・古文書等は灰となってしましました。 現在、武蔵生家跡として言い伝えられた場所には、古井戸が残っているだけです。 ※荒神さんの境内の無残な傷跡を残した椋樹が、この再度の大災害を物語っています。 「播磨鑑」 『宮本武蔵、揖東郡鵤ノ庄宮本村ノ産ナリ、若年ヨリ兵術ヲ好ミ諸国ヲ修行シ、天下ニカクレナク則、武蔵流ト云テ諸士ニ門人多シ。然レドモ諸侯ニ仕エズ明石にニ至リ小笠原右近将監候ニ謁見シ、其時伊織ニ五千石ヲ賜ハリテ大老職ニ任官ス今ニ其子孫三千石ニテ家老職ト云・・・』