ぶらり太子通信

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宮本武蔵生誕地  
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宝暦12年(1762)に書かれた地誌【播磨鑑】に当時、宮本武蔵が太子町宮本村で生まれたと記されています。また、晩年の武蔵を知る唯一の史料、自筆「五輪書」に武蔵が自ら「生国播磨の武士・・・」と記載をされています。 残念なことに、宝暦年間の大火災にて村の大半が罹災し、武蔵に関する資料・古文書・系図等の大部分が消失。さらに、明治20年におきた再度の大火災により、総ての史料・古文書等は灰となってしましました。 現在、武蔵生家跡として言い伝えられた場所には、古井戸が残っているだけです。 ※荒神さんの境内の無残な傷跡を残した椋樹が、この再度の大災害を物語っています。 「播磨鑑」 『宮本武蔵、揖東郡鵤ノ庄宮本村ノ産ナリ、若年ヨリ兵術ヲ好ミ諸国ヲ修行シ、天下ニカクレナク則、武蔵流ト云テ諸士ニ門人多シ。然レドモ諸侯ニ仕エズ明石にニ至リ小笠原右近将監候ニ謁見シ、其時伊織ニ五千石ヲ賜ハリテ大老職ニ任官ス今ニ其子孫三千石ニテ家老職ト云・・・』
山田峠遺跡群  
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山田周辺の山丘の屋根・斜面などには、数多くの弥生遺跡が存在します。山田遺跡・小丸山遺跡・桃畑遺跡・中山遺跡・雁谷山遺跡等で30数個の古墳も確認もされています。なかでも小丸山遺跡で発見された分銅形土製品は珍しいものです。
糸の井  
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朝日山西の山麓にある、清水がこんこんと湧き出ていた泉で、播磨名水のひとつといわれています。朝日山におられた顕実上人の硯水とも伝えられています。 いろいろの木の葉流るる糸の井はゆきき人のしるしとぞきく 顕実上人
大津茂川のお姫様  
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むかし、楯岩城には十歳になる美しいお姫様がいました。 ある、秋の夕暮れ時、二〜三百の敵兵士が攻め込み、見方は無勢で敗北したとの知らせが届きました。 驚いた殿様は、大急ぎでお姫様に逃げるように命じ、お姫様が山を降り、小舟に乗って大津茂川を下り、ちょうど浄因寺の辺りまで来た時、山を見ると、城は焼け落ち、みな討ち死にしてしまっていたのでした。 お姫様は、あまりの悲しさに涙がとめどなく流れ、その涙のなかで優しい里人達との楽しい夏の盆踊りや、秋祭を思い出していました。 「父や母、家来たちのあとを追って死のう。」 そして里人達のために大津茂川の主となって、川の流れが絶えないように守ろうと決心して、大津茂川に身を投げたそうです。 それから、大津茂川に水のかれることはなくなったそうです。 「風土記の里太田民話の伝承 柳沢 忠著」
太田の地蔵尊  
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旧国道沿い北側に、土地の人々から「太田の地蔵さん」の愛称で信仰されている地蔵菩薩があります。奈良時代の高僧行基が建てたと伝えられています。 ※行基=民間布教に専念し、各地に道や端、池などを造り人々の為に働きました。聖武天皇に敬重され、奈良東大寺大仏を建立しました。

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