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ぶらり太子通信

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斑鳩寺  
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法隆寺領播磨国鵤荘の中核として創建された霊刹。 仁王門・講堂・聖徳殿・三重塔など伽藍配置は法隆寺によく似ています。往古には、七堂伽藍、十数の子院が甍をならべ壮麗を極めましたが、出雲の尼子氏の侵入で播磨が混乱していた天文10年4月7日の夜明け前の出火で全焼していしまいました。その後、楽々山円勝寺の円光院昌仙らが龍野城主赤松下野守正秀らの援助を受けて永禄年間までにほぼ再建しました。「お太子さん」として広く信仰を集めています。 <斑鳩寺の歴史> 聖徳太子が、推古天皇14年(604年)に飛鳥の豊浦宮(とようらのみや)、今の橘寺において、推古天皇の御前にて勝鬘経を講話されました。推古天皇は大いに喜ばれて聖徳太子に播磨国揖保郡の水田百町を寄進されました。聖徳太子はその地を「斑鳩荘」と名付けられ、一つの伽藍を建てられたのが斑鳩寺の始まりです。 聖徳太子は斑鳩寺を法隆寺に寄付されました。以後法隆寺の荘園として千年近くにわたり栄えました。 ※入場無料。宝物殿のみお一人300円。団体は250円。 ※住所:揖保郡太子町鵤709 ※℡:079-276-0022 ◎木造聖徳太子立像 太子堂に植髪の聖徳太子像が安置されています。着衣し、上に袈裟をまとわれています。斑鳩寺にとって太子信仰の中核となる尊像で、この太子像に対して在地の信仰は並々ならぬものがありました。 ■聖徳太子勝鬘経講讃図 〔国指定重要文化財〕 法隆寺伽藍縁起并流記資材帳、戌午年(598)4月15日の聖徳太子講経のありさまを描いたものです。
立岡山・御立阜  
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太子町の地名を記す最も古い文献は、奈良時代の始め、714年につくられた「播磨国風土記」です。 それによると、応神天皇がこの山に登って四方の地を眺め、国見をしたので「御立阜」というと記されています。
お幡入れ・法伝哉  
旧鵤庄の太子町平方・東保・東南とたつの市福田に伝わる伝統芸能お幡入れ・法伝哉は、聖徳太子が仏敵物部守屋を討伐した戦勝を祝う様子を今に伝えるものといわれています。 平方法伝哉保存会が太子町無形民俗文化財に指定されています。
楯岩城  
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「播磨鑑」によると、この楯岩城を築いたのは、赤松則弘で、その後加東郡に去り、1441年に赤松伊豆守貞村が城主になったとかかれています。5代続いて栄えました。 姫路藩士、小屋左次右衛門が城跡に登って描いた見取り図によると、現在のテレビ塔があるところが本丸で、南と西北に伸びる屋根上に、二の丸、三の丸を設けたかなり大規模な山城であったと記されています。 巨岩が文字通り楯のように立ち並んでいるところから、楯岩城の名がつけられています。
宮本武蔵生誕地  
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宝暦12年(1762)に書かれた地誌【播磨鑑】に当時、宮本武蔵が太子町宮本村で生まれたと記されています。また、晩年の武蔵を知る唯一の史料、自筆「五輪書」に武蔵が自ら「生国播磨の武士・・・」と記載をされています。 残念なことに、宝暦年間の大火災にて村の大半が罹災し、武蔵に関する資料・古文書・系図等の大部分が消失。さらに、明治20年におきた再度の大火災により、総ての史料・古文書等は灰となってしましました。 現在、武蔵生家跡として言い伝えられた場所には、古井戸が残っているだけです。 ※荒神さんの境内の無残な傷跡を残した椋樹が、この再度の大災害を物語っています。 「播磨鑑」 『宮本武蔵、揖東郡鵤ノ庄宮本村ノ産ナリ、若年ヨリ兵術ヲ好ミ諸国ヲ修行シ、天下ニカクレナク則、武蔵流ト云テ諸士ニ門人多シ。然レドモ諸侯ニ仕エズ明石にニ至リ小笠原右近将監候ニ謁見シ、其時伊織ニ五千石ヲ賜ハリテ大老職ニ任官ス今ニ其子孫三千石ニテ家老職ト云・・・』

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