観光マップ

観光マップ

6~10件目を表示/34件中
立岡山・御立阜  
立岡山.jpg
画像をクリックすると拡大されます
太子町の地名を記す最も古い文献は、奈良時代の始め、714年につくられた「播磨国風土記」です。 それによると、応神天皇がこの山に登って四方の地を眺め、国見をしたので「御立阜」というと記されています。
お幡入れ・法伝哉  
旧鵤庄の太子町平方・東保・東南とたつの市福田に伝わる伝統芸能お幡入れ・法伝哉は、聖徳太子が仏敵物部守屋を討伐した戦勝を祝う様子を今に伝えるものといわれています。 平方法伝哉保存会が太子町無形民俗文化財に指定されています。
楯岩城  
楯岩城.jpg
画像をクリックすると拡大されます
「播磨鑑」によると、この楯岩城を築いたのは、赤松則弘で、その後加東郡に去り、1441年に赤松伊豆守貞村が城主になったとかかれています。5代続いて栄えました。 姫路藩士、小屋左次右衛門が城跡に登って描いた見取り図によると、現在のテレビ塔があるところが本丸で、南と西北に伸びる屋根上に、二の丸、三の丸を設けたかなり大規模な山城であったと記されています。 巨岩が文字通り楯のように立ち並んでいるところから、楯岩城の名がつけられています。
宮本武蔵生誕地  
武蔵生誕地碑.jpg
画像をクリックすると拡大されます
宝暦12年(1762)に書かれた地誌【播磨鑑】に当時、宮本武蔵が太子町宮本村で生まれたと記されています。また、晩年の武蔵を知る唯一の史料、自筆「五輪書」に武蔵が自ら「生国播磨の武士・・・」と記載をされています。 残念なことに、宝暦年間の大火災にて村の大半が罹災し、武蔵に関する資料・古文書・系図等の大部分が消失。さらに、明治20年におきた再度の大火災により、総ての史料・古文書等は灰となってしましました。 現在、武蔵生家跡として言い伝えられた場所には、古井戸が残っているだけです。 ※荒神さんの境内の無残な傷跡を残した椋樹が、この再度の大災害を物語っています。 「播磨鑑」 『宮本武蔵、揖東郡鵤ノ庄宮本村ノ産ナリ、若年ヨリ兵術ヲ好ミ諸国ヲ修行シ、天下ニカクレナク則、武蔵流ト云テ諸士ニ門人多シ。然レドモ諸侯ニ仕エズ明石にニ至リ小笠原右近将監候ニ謁見シ、其時伊織ニ五千石ヲ賜ハリテ大老職ニ任官ス今ニ其子孫三千石ニテ家老職ト云・・・』
山陽道鵤宿  
斑鳩寺の門前に成立した鵤村は、江戸時代には山陽道の宿場町でもありました。鵤宿は、本陣があるだけで人馬の継立てはしない宿場でした。

<<  |  <  |  1 2 3 4 5 6 7  |  >  |  >>  |  ( MAX : 7 page )

Powered by BLAMS. Copyright © 2002-2017. Blazinghills.All rights reserved.BLAMS 1.3.0 (DEV)